邪馬台国徳島阿波説ではなく四国(土佐 讃岐 伊予 阿波)山上説
四国 阿波 讃岐 伊予 土佐には現在も秘境 高地性集落が存在し、
多くの人々が生活している。
中国史書の記述に「四面が海に面している」という箇所に注目。
九州も本州も大きすぎて「四面が海に・・・」の表現には無理があります。
四国山上は人口 面積 食料自給など矛盾なく比定が可能です。
最近 邪馬台国徳島阿波説が脚光を浴びてきました。ただ阿波地方のみではあまりにも
狭すぎます。古代は海抜も現在よりは高く海岸線も現在よりは狭かったと考えられます。
現在の徳島市には広大な平野があります。当時は平野部は海の底です。
大杉氏が注目したのは魏志倭人伝の「邪馬台国のそばに21の国がある」という記述。
上の地図にあるように中央の山上の邪馬台国を囲むように平野部に21の国があった痕跡を掴みました。
現在でも市街地があり集落のあるポイントを地図上に仮定して、次に日本の古い地名 郷名などの発音が倭人伝の漢字の発音と、三分の二がほぼ一致しました。
漢字の発音は古代から中国ではそれほど変化してないといいます。
四国の周辺を囲むように邪馬台国の属国が順番通りに並び古い地名が倭人伝通りの発音で読めることに注目。
つまり山上は卑弥呼の国。平地は邪馬台国の属国であったということとになります。
ご覧のように四国の四国山地を中心とした高地性集落付近を邪馬台国と比定しています。
高い山の山頂付近が草原になっている事に注目し人工的に山焼きを行い草山の風景を作り出したと推理。
尾根伝いに幹線を整備し四国内の移動を容易にしたと思われます。現在でも標高の高い山々の山頂付近に大小の人工の池 池跡を確認する事ができます。
多くの人々の飲料水を確保するために、大土木工事を完遂しています。この事からも山上に多数の人々が生活していたことが伺えます。
現在のように人々は、平地に集まり生活するという常識に捕らわれていては、四国の不思議は理解できません。邪馬台国阿波徳島説ではなく四国の山上に邪馬台国はあったのです。
中国史書の文献に照らして矛盾なし 邪馬台国阿波徳島説ではなく四国の山上に比定すると謎が溶ける。
現在 大手マスコミは、考古学において邪馬台国を探そうと必死です。
日本各地には発掘されていない場所が99%以上あります。どこまで発掘が進めば邪馬台国の結論が見いだせるのでしょうか?
発掘による邪馬台国探しはもう辞めるべきです。
日本の古代国家に関する中国史書の記述に忠実に向き合い矛盾点のない場所が本当の邪馬台国なのです。
自然 風習 政治など、多くの特徴が記述されている訳ですから一つずつ、つぶしていく地道な作業が必要です。
例えば動植物の記述に「牛、馬なし」とあります。また「虎なし」ともあります。虎なしは、ほとんどの日本の国土に当てはまります。では、牛馬なしとは?どう解釈するのでしょうか?
史書に記述されている多くの特徴に矛盾がなければ卑弥呼の住まいが例え発見出来なくても、邪馬台国であると宣言できるのです。
四国山上説では高地性集落に邪馬台国を比定していますので、玄関先の北九州の平野部に、牛馬を認めたものの、邪馬台国の都付近では牛馬は見かけなかったと解釈します。
四国山上説は高い山に都があるわけですから、牛馬も尾根伝いの急で狭い道には利用できませんし、何より大切な水を確保するための「山上池」に汚物を流されては飲料確保が大変です。
野生の牛馬も徹底的に駆逐されたと考えます。
また植物に関しては「橘あり」との記述もあります。柑橘類の原種に当たる橘があったという事です。四国高知土佐市には橘の原種も確認されていますし、様々なみかん 柚子 酢橘などの日本有数の産地でもあります。
中国史書の記者が特徴を記述していることには、邪馬台国を知るための、明確な理由があります。こういった小さな特徴を拾い上げ矛盾点がないか確認していくのです。
四国全体の異常な数の山上集落がその証拠となります。
邪馬台国徳島阿波説ではなく四国(阿波 土佐 讃岐 伊予)山上説
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